●更新日 07/01●


少しだけ泣けたこと。


今日もあの人は何事もなく家に帰って行った。
ホッとしている私がいる。
これはもうただの安心感を超えていた。

「お願いだから何もしないでまっすぐ帰って。」
それだけ祈りながら半年が経ってしまった。

誰にも気がつかれてはいけない。
チームの誰にも気がつかれてはいけない。

私はこの案件の対象者である彼のことを、気がついたら好きになっていた。






そもそもこの案件は、私の担当ではなかった。
半年前別の案件に携わっていた私だったが、ふとしたことがきっかけで私も参加することになった。

今回の調査目的は、対象者の退社後の素行調査。
どうやら対象者は以前働いていた人間と接触して企業情報を漏洩しているらしい。
料金との兼ね合いもあり毎日調査するわけにはいかず、週末にしぼり調査を開始。
しかし思う様な結果が得られず3ヶ月が過ぎた。
調査の結果がまったく出ていない訳ではないが証拠としてはあまりにも弱く、週末調査の他平日も調査を行うことになった。

調査が延びるイコール彼に逢える。
今から思えば、私は少し浮かれすぎていたのかもしれない。
調査員が対象者に恋心を抱くなんてもってのほか。
そんなことは重々承知している。
しかし、私は初めて対象者の写真を見た時から不思議と分かっていた。
「私、きっとこの人を好きになる」と。
もう5年調査員として働いているが、こんなことは初めてだった。




実は誰にも言っていないが、この半年間で一度だけ対象者と話しをしている。
話しという程ではないが、言葉を交わしたことがあった。
それは彼の調査中、別の案件で前日徹夜したこともあり、街中で貧血を起こして座り込んでしまった時だった。彼は私がいる場所から少し離れたところで携帯電話で誰かと話しをしていた。

「大丈夫ですか?」

誰かに声をかけられたが、こんな場所で貧血を起こした恥ずかしさと対象者を視界からはずしたあせりで、差し出された手を取ることなく慌てて体制を戻した。まともに顔を上げることなくお礼を言って歩き出そうとした瞬間、声をかけてくれたのが対象者である彼だと分かった。

「あっ。」

あまりに驚きに言葉が出なかった。
私の周りに人がいなかったわけではない。むしろ混み合っていた。
近くにいた人は誰一人私に声をかけなかった。
なのに、彼は少し離れたところから駆け寄ってくれたらしい。

「大丈夫です。すみません」

慌ててその場を去り、物陰に隠れた。
彼はもとの場所に戻り、また携帯電話で話しを始めた。
他のメンバーはバイクと車を回している途中だった。
このことが知られてしまったら一大事である。
対象者に声をかけられてしまったという失態で心臓のドキドキは止まらなかったが、それ以上に彼との突然の接触に心臓が爆発しそうだった。

「このままでは調査が出来ない」
私は慌てて縛っていた髪をほどき、持っていた伊達めがねをかけ、Tシャツの上に羽織っていたシャツを脱いでバッグにしまった。
その後、何事もなかったかのように別のメンバーと合流して調査を行った。
本来であればメンバーにすぐに報告しなければいけないことだったが、私はどうしても言えなかった。言ってしまったらこの調査からはずされてしまう。それだけは避けたかった。

張込みをしているその先には彼がいる。
それだけで胸が締め付けられそうだった。
車の中でさっきのことばかり思い出している。
彼の声をまともに聞いたのは初めてだった。
差し出されたその手は大きく、「男の人の手」だった。
何だかその時少しだけ泣けた。



この案件は2チームで交代で回していた。なので私が彼の調査を行うのは2ヶ月にいっぺんだった。彼に声をかけられた日の次の調査から、もう一つのチームが調査を行うことになっていた。
1ヵ月後、我々のチームの調査の番が来る前に、私は肩下まであった髪の毛をバッサリ切った。
たった一瞬とはいえ、正面から顔を見られてしまっていることがとても怖かった。
髪の毛は長い方がアレンジ出来るので便利といえば便利だったが、それよりも発覚を恐れて髪を切った。チームの皆にはイメージが変わったと言われ、少し安心した。





それからも何もなかったように調査を続けた。

私は彼のことを何も知らない。
調査を行う上で必要なこと以外は何も知らない。

私は彼の笑った顔が大好きだった。
ただ、それだけだった。
それ以上でも以下でもない。
なんでこんなに好きになったのか、私もまったくわからなかった。


そしてある日突然調査は打ち切りになった。
詳しいことは調査員の私には何も知らされなかった。
依頼者には申し訳ないが、私が調べている時に彼の証拠が出なかったことに安心した。
ただもう逢えないということが、とてつもなく寂しかった。
また少し泣けた。
それから一度も彼には逢ってない。



カンナ



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