●更新日 04/07●

動物嫌い3


※非常に長文です。興味の有る方のみ、お読みください。

動物嫌い1  動物嫌い2

もともとは、上記記事において「全ての人が動物好きとは限らない」という読者の方の発言にコメントしたものだったのですが、いつの間にやら議論に近い状態になりました。こういった事は宗教論争と変わらないとは思いますが、前回の私の発言に対しても言葉が足りなかったせいか疑問と意見が寄せられましたので、もう一度前回に書きたかった事を踏まえたいと思います。

まずは、寄せられた意見の中について、幾つか意見を返させて頂きます。

・より自分(人間)に近い生物には親近感を抱きやすい
・可愛い(=庇護対象になりやすい)ものにも親近感を抱きやすい
・利害がある場合はそれが優先されるって事だと思います。
山木さんの論理だけだと、野生の象が密猟者に殺されるのを見て可哀想だと思う感情は説明できません。


その人が生まれ育った環境に大きく依存しているから、という理由で説明が付くと思います。子供の頃から受け取ってきた情報の中には、密猟されたゾウというと、「人間の都合で殺されたり、牙を商品にされたりしてかわいそう」といった価値判断が埋め込まれています。逆に、現地で密猟しながら生計を立てている人は、そんなことに構っていたら商売をやっていけません。
むしろ、ゾウを殺すこと自体、日本人が考えるよりそんなに悪いことだとは思っていないでしょう。この場合、論点となるのは「密猟という行為が正しいか」ということなのであって、価値判断の問題ではありません。


話の根幹である「どういった動物殺害はOKで、どういったものはNGなのか」って事ですが、結局主観の問題になって結論は出せないでしょう。電車内の携帯電話を許す許さないとかと同じで、価値観の問題になってしまいます

携帯電話の問題の場合、価値観の衝突ではなく、危害の問題ではないでしょうか。ペースメーカー等への身体的な危害という直接的な危害、電話が鳴る音や大声での会話が公共の場での騒音になるという迷惑のレベルでの危害、電車内での着信や会話そのものが不快だという、より個人的なレベルでの危害。価値観の衝突になっているのは第三番目だけであって、動物の殺害問題と同一とはとても思えません。


件のチンピラの行為で明確に非難できるのは「他人のペットを避けられない理由も無しに殺害した」ことでしょう。
結局、「所持品の破壊」と変わらないというしかないのは、変えられないと思います。
ただ、一般的な物品と異なり、ペットは唯一無二で変わりは利きませんし、飼い主への精神的ダメージも大きいので全く同じに扱うことには確かに違和感は憶えます。とはいえ、明確にこのあたりを規定しきれない以上、刑事罰としては現状維持が妥当ではないでしょうか。


唯一無二という性質は物にも当てはまるから、これは反論になりません。精神的ダメージということについても同様。
ペットとの違いは、ペットは生命であり、所有の対象にはならないということ。所有の対象とは、所有者が完全に制御してよいと見なされるものであり、実際にペットをそのように扱うことには問題があります。むしろ、ペットを飼育していて、たとえ飼育者の思い通りにいかなくても、叱りつけたりするだけで殺したり虐待したりしないのは、そのペットが自分とは違う存在であること、つまり完全に制御の対象にはならない、すべきでない存在であることを、飼育者が暗黙にでも了解しているからでしょう。相手が全く尊重の対象とならないと考える時、人は他人を殺してしまう事すらあります。そのような行為が法的に罰せられるのは、「人を殺すことが倫理的に悪い」という価値判断があるから。しかし、この価値判断の妥当性を明確に規定することはできません。社会の治安のために必要だというのは、利益に関する計算なのであって、「殺すこと=悪」という倫理観の妥当性を論証することとは異なります。だから、「人の場合には明確な規定が成り立つけれど、ペットついては成り立たないので、現行法の維持が妥当」という結論へと至ることにはなりません。


探偵ニュースの三月二十二日の「動物嫌い2」をみて投稿させていただきます。いろいろと考えさせられる記事ではあったのですが、「特定の人との関連性」という趣旨からすると、以下のケースにおいて「特定の人との関連性を持つ動物を殺すこと」は悪ということになってしまいます。零細な農家がありました。そこでは家畜として牛を一匹だけ飼っていました。一匹だけしか飼っていませんから、当然大事に育てます。情も沸きます。そこの子供は牛のマッサージもしますし、そとに出して遊んだりもしていたそうです。ところがある日、牛はいなくなってしまいました。出荷されてしまったのです。子供が牛にしていたマッサージは肉質を柔らかくする為のものだったのです。子供は泣きました。友達が死んだからです。このケースで一番悪いのはもちろん「子供にきちんとした説明を与えなかった両親」ということになるのですが、この様なケースは北海道の牧場に多々あり得ることなのではないかと思います。
また、韓国では育てた犬を食犬として出荷する農家が多いと聞きます。犬は特に人間に慣れやすいですから、上のようなケースが後を絶たないと思うのです。私は犬を食べたことはありませんし、犬は大嫌いですが、家族を失うことのつらさぐらいは知っているつもりです。「特定の人の関係があるから殺してはならない」という理論は犬を飼う農家の子供たちには適応されないことになってしまいます。しかし牛や牛に限らず、人間は他の命を奪わずして生きていくことは叶いません。さらに、この意見では人間も家族がいる限り、たとえ合法的にではあっても死刑にしてはならないということになります。また家族も知り合いもいないヒキコモリならば殺してもいいという結論とつながってしまいかねません。「特定の人との関係」に対する私の意見を言わせていただくと、「殺すべきだと思う『人』の数が、殺してはならないという『人』の数よりも多いから」殺してはならないのだと思います。ヒキコモリであっても殺すべきだとまで思う人は少ないですし、オウムの松本被告は多くの人が死刑にするべきだと思っています。インフルエンザになったぐらいで殺されたらたまったものではありませんが、トリが『人』に損失を与える可能性をもっているのならばそれは致し方ないのかもしれません。エゴ丸出しでもいいのではないでしょうか?所詮、民主主義は多数決。公共の福祉のために一部が犠牲になることは仕方ないのかもしれません。


家畜の場合と、ペットの場合の人々の反応の違いがありますよね。これらを同列に扱うと議論に混乱が生じるという前提で、これまでの特集記事も書かれてきたわけですから。それに、上記の人は、前回の記事を誤読しています。記事の中で述べてきた、「殺すこと=常に悪」ではないということと、「関係性」という言葉を特定の人間関係に限定してしまっているという点。
実際には、周囲の環境、情報なども含めて、一人一人の価値観に影響を及ぼしている要素は少なくないですし、直接的な関係を持っていない存在でも、その存在の命が奪われることに否定的になる場合は少なくありません。

それに、議論の方向そのものが、「エゴを認識しよう」という趣旨なので、前提からズレています。
次に、民主主義の理解としてはあまりにも狭すぎます。第一に、民主主義社会で多数決による合意を図ってよいとされるのは、近代的な自由主義のシステムが民主主義の系譜に流れ込んだ自由民主主義社会においてであり、民主主義全般には当てはまりません。
第二に、この人の前提では、最大多数の最大幸福という功利主義を前提として民主主義というものを規定していますが、多数者の幸福の総量と少数者の幸福の総量を比べて、常に前者の方が上回るのか、あるいはこの比較自体が可能なのか、ということを論証しなければ、この主張は成り立ちません。また、多数者の幸福と少数者の幸福の質を比較した場合に、常に前者を優先してよいという根拠もありません。例えば、この人の論理で「公共の福祉」を考えれば、一人では生きられない障害者のために微々たる金額でも徴収されるくらいなら、少数者には悪いけど死んでもらった方がいい、ということになります。そのように考える人はある程度いるとしても、それを国家の合意形成として成立させるわけにはいきません。ということは、多数者や公共の福祉といった理由が、常に優先されているのではないことになります。
第三に、この人の主張は自分が「多数者でいられる」という前提があるからこのように語れるのであり、逆に少数者になった場合に同じことが本当に言えるのか、その主張を貫けるのか、自問すべき。
そうであるならば、この人の「エゴは丸出しでいい」という主張は、結局はこの人自身のエゴを密かに隠蔽して他人事のように語るためにしか機能していないません。


ペット特集が意図しているのは、「ペットブームや、世の中で起きている事実を見る」という事です。感情剥き出しでいいのであれば、食用以外にて動物を殺す事は悪いに決まっています。しかし、個人の範囲でせよ、何人か集まって群れになった時にせよ、死というものが事実起きる以上、我々はそれを知る必要があるのではないでしょうか?

価値観の相違や、宗教問題のように片付かない問題であるとしても、起きている「事実」を認識して頂ければと思い、探偵ファイルはこれからも、「動物問題」は取り組んで行こうと思っております――



探偵ファイル・山木



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