●更新日 03/22●

動物嫌い 2


記事の元になった題材 「人の悪意、生き物の命」


前回、動物嫌いの記事を更新したところ、各種様様な意見を頂きました。

特に「特定の人との関係性を持って生きていたという点が、一つのポイントになります」という表現への疑問・批判が多く寄せられましたので、今回は前回の記事で表現したかった事を明確にしておこうと思います。


もう一度書きます。「人の悪意」の事件では、事件を起こしたAがチンピラ紛いの事をしていたという事もさる事ながら、被害に遭った動物がペットとして、人との関係の中に生きていたことがポイントの焦点です。もっと分かりやすくするなら、次のように言い変えてもいいかもしれません。その動物が、人々による関心の対象の一部だったからこそ、「事件」として注目されたのだ、と。



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例えば、ネコが死んでいる場面を見るのと、アリが死んでいるのを見るのとでは、感じ方が全く違うはず。


極端な話をすれば、ある人が自分の快楽のためだけに虫を踏み潰しているのを見たら、人々は今回の事件ほど同情的にはなりません。犬の場合よりも同情的にはならないのは、単に犬の方が「知能が高いから」とか「高等動物だから」とか、動物愛護でよく耳にする理由ではないはず。多くの人の場合、そういう何か合理的な基準みたいなもので判断しているというよりも、自分達にとって何が関心の対象であり、何が大事な存在で尊重すべきかということについては、今までの人生での周りの人々や生き物との生活の中で、自分なりの関心や尊重の範囲というものを形成しているのではないでしょうか。


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鯨は頭が良いから殺すなとは、良く聞く言葉ですが、、、


でも、もしその虫が、どこかの家の子供が大切にしているペットだったりしたら、同情する人も増えるかもしれません。何故ならば、例え一匹の虫だったとして、ペットと子供との関係というものを人々が思考の中に入れるからです。例えるなら、その辺の道にいるアリが踏み潰されたのを見た場合と、子供が大切に育てているアリが踏み潰されたのを見た場合の違い、ということ。

これをエゴだとか偽善だとか非難するのは簡単ですが、現実に自分や周りの人達がそのようであるという事や、この事を直視しないと多くの問題やその背景にある社会の構造といったものも見えてこないし、変えていくこともできません。

今までエゴや偽善として、つまり自分には関係ない他人事なんだと目を瞑っていた事に対してちゃんと見て欲しいから、ペット特集も続けてきました。


逆に言うと、これは飼い主の問題でもあります。動物が嫌いな人、動物の鳴き声などによる周囲とのトラブル、アレルギー体質の人への被害・・・そういう人達のことも考えて飼育することだって、飼い主の責任です。その為には、飼い主だって上に書いたような現実を、そして自分もその現実の中に生きる一部なんだということを、いつも自覚しておく必要があります。そういう配慮をしないと、動物が嫌いだからといって暴行することを認めてしまうような人のエゴと同様、「飼い主のエゴ」ということになりますから。


こういうふうに考えてみると、動物が好きな人も嫌いな人も、やはり今の状況やペット問題の現実を無視して、自分の考えだけを押し通そうとすることには無理があります。その一方で、動物愛護法の問題点も含めて、動物好きの人、動物嫌いの人、そして飼育されるペット自身に配慮した制度へと変えて行かなくてはならないような時期が来ているのではないでしょうか。



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