●更新日 09/01●


チベットと中国・真田と徳川の奇妙な関連


昨年から続く、チベットと中国の闘い。この闘いはいつか、どこかで見た闘いである。実は、中国に徳川家、チベットに真田家をあてはめると奇妙な一致が見出せるのだ。

まず観察してみると、周辺諸国との地理的関係も似ている。中国・インド・ネパール・ロシアなど強国に囲まれたチベットは、武田・徳川・北条・上杉など強国に囲まれた真田のポジションに近い。また、真田は武田滅亡後、一時独立したが、徳川の介入を受けている。偶然だが、チベットも清による支配を受け、清の滅亡後、再び独立国家となるが1950年に中国人民解放軍による侵略を受けているのだ。山岳部の小国・チベットと真田は似ているのだ。

しかも、真田家中が決死のゲリラ戦によって徳川軍団に戦いを挑む経過は、現在世界中に広がっている「フリーチベット」の運動を彷彿させるし、昨年のオリンピックの聖火リレーがやって来た長野県は、真田の本拠地・上田城があった県である。山の小国・真田と、平野の大国・徳川が対決した上田城合戦のあった長野県で、チベット(=真田)と中国(=徳川)の(旗の奪い合いという)対決が再現されたのである。つくづく、歴史の皮肉を感じてしまう。

もっとも、小勢力が巨大な力に戦いを挑む場合、その戦法や状況が似てしまうのは、人間の行動原理からも、いたしかたない。

また、両者の戦いの経過も、奇妙な相似形を見せている。中国軍によってチベット侵攻がなされ、併合された後、二度にわたるチベットの反乱騒動が起きている。これは、関ヶ原で敗れた西軍に与した真田幸村が、大阪冬の陣や大阪夏の陣で、二度にわたり徳川軍団に戦いを挑んだ構図と一致する。となるとダライ・ラマが、真田幸村の位置に重なってくるのだが、14代ダライ・ラマに照合するかのように、真田家の現在の当主も14代当主である。ここまで来ると不気味としかいいようがない。

また、ダライ・ラマがインドに亡命したように、真田幸村も大阪夏の陣のあと、豊臣秀頼を連れて、薩摩に逃れ、隠れ住んだという伝説がある。更に、真田幸村の家中といえば、創作的なキャラクターだが、真田十勇士が有名である。実はチベットにも、真田十勇士と呼ぶべき十人の日本人がいるのである。1901年に、日本人として初めてチベットのラサに入った河口慧海を筆頭に、寺本婉雅・能海寛・成田安輝・野元甚蔵・矢島保治郎・木村肥佐生・青木文教・多田等観・西川一三という十人がそれに該当する。

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山口敏太郎



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