●更新日 03/07●

三宅島 廃屋の町を取材してみる


三宅島に渡る船は1日1便。年配者が多い船内にあって珍しく若い女性がいた。



高校3年生で、三宅島に先に移住している公務員の父の元で週末を過ごすという。傍には高1と小3の弟がいた。母親は東京で留守番だそうだ。

彼女以外の家族は全て島に戻るが、彼女は警察官の試験に合格したので島には戻らず東京に残る。「婦警になるのが子供の頃からの夢でした」と、はにかんで笑った。

「(4年半避難生活をした)東京と三宅島、どっちがいい?」と聞けば、「やっぱり島」という答えがかえってきた。「自然があって好き」と言う。

三宅島の高3の友人10数名の進路は、ほとんどが東京に残り大学へ、残りの数名が島へ帰り復興作業等の仕事に就くとのこと。


フェリーが着いた。港から島を1周してみることにした。常時携帯が義務付けられているガスマスクを観光協会で購入し、デイパックに忍び込ませる。



道路脇の景色を見る限り、未だに立ち入り禁止区域がある島だとは思えないほど整備されている。「噴火の島」を実感したのは、港で少し硫黄の臭いがした時くらいだろうか。

しかし、被害の大きかった三池地区に入ると状況は一変した。


      土砂に埋まった家屋。

道路沿いに廃屋が密集していたので入って行くと、凄まじい光景がそこにあった。


   高濃度地域だがガスの臭いはしない。



普通4年半でここまで朽ちることはないと、島民。



   いたる所にこのような家屋がある。



       家屋内に入ると…。



 趣味だったのだろうか、鳥籠が多数見られる。





三宅村役場で話を聞くと、この荒廃の原因は複数考えられるという。

噴火後の地震。火山ガス。酸性雨。元々ある塩害。放置。

それに加え、この地域ではトタンで出来た屋根や壁が多く、それが腐食、崩壊して写真のように多数の家屋が骨組みだけになったようだ。


現在でもこの付近一帯は火山ガスの「高濃度地区」に指定されていて居住が許されていないが、空港や港のあるこの地域に普通の生活が戻らない限り、島の復興は険しい。

しかし、1周して解ったが、島には過去の噴火の爪あとがそこかしこにある。火山の噴火と共存して来た島とも言える。

ここに取材で出会った73歳の帰島民、小笠原みどりさんの短歌がある。


  四回の噴火をしかと 受け止めて

  三宅と歩まん 自然を友として


島民の島への愛着がある限り、この島は「噴火を乗り越えてきた島」として存在し続けるだろう。



ぽん


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