●更新日 10/31●

仁の人 〜コタンのシュバイツァー〜


「医は仁術」という言葉がある。

“仁”とは儒教の根底を成す言葉で、所謂“人を思い遣ること”という意味がある。まさにその仁の心を医術として体現した医師が、昔、北の大地にいた。

名を高橋房次、後に“コタンのシュバイツアー”と呼ばれた人である。


「往診に出かける高橋房次医師」
撮影:掛川源一郎(『gen〜掛川源一郎が見た戦後北海道』北海道新聞社刊より)


房次は明治15年、栃木県に生まれ、明治36年に現在の東京慈恵医大を卒業。軍医、警視庁検疫医を経た後、アイヌ民族や開拓民の困窮を知り、大正4年に北海道に渡り、新冠(にいかっぷ)村の村医に赴任した。

そして大正11年、北海道庁が設立したアイヌ民族の為の医療施設である、白老(しらおい)土人病院の初代院長となった。

たった一人の医師であり、開拓民の厳しい現状を知る房次は、頼まれれば寒風吹きすさぶ夜間の往診も厭わず、貧しい患者からは、診察費や薬代の催促をせず、逆に自分の家から持ち出した米や衣服等を分け与えた。

よって房次の生活は医師とは思えぬほどの慎ましさであり、患者の漁師が差し入れる魚によって、口に糊する日々であった。

その後、土人病院は閉鎖され、病院施設を無償で譲渡された房次は高橋医院を開く。


「貧しい人も富める人も差別なく平等に医療を受けられるべきだ」

房次の心は、貧富の差も、民族の区別もなく全ての人々に届いた。

昭和30年、白老町名誉町民第一号に推され、その二年後、医師会からの表彰と、更にその一年後の昭和33年には北海道文化賞を受賞する運びとなる。


「私は医者になってこのかた、聴診器を手放したことはなかった。その私が、今日初めて聴診器を持たずにここにやってきた」

文化賞受賞の挨拶で、訥々と房次はそう語る。とりわけ、房次の受賞を喜んだのはアイヌの人々だった。


房次の地域医療に捧げた人生は、昭和35年6月29日に終わりを告げる。
享年79才。
葬儀の参列者は1000人に上り、葬列は400メートルにも及んだ。
日本政府は、房次の生前の功績を讃え、勲五等双光旭日章を授与した。



白老町中央公民館前に、文化賞受賞年に建立された房次の胸像がある。

そして、愛用した黒のソフト帽、黒の外套と共に、ぼろぼろの鞄を抱えて往診に赴く小さな老医師の姿と物語は、小さな町に住む人々のモノクロームな記憶の中に、永遠に語り続けられる。



柏倉



前の記事
今月のインデックス
次の記事