●更新日 02/16●


近藤勇の首塚の謎 各地に点在する墓所とは


今年の大河ドラマ「龍馬伝」は、幕末の風雲児であり麒麟児でもあった坂本龍馬の激動の人生を描いている。幕末は破天荒な志士たちが各地から現れ、武家社会の常識を覆していくのだが、その非常識の中だからこそ生まれた武闘派組織がある。それが会津藩の直轄集団「新撰組」である。

元々、八王子千人同心という農民に近い身分に生まれた近藤勇や土方歳三が、本来の幕臣であった旗本や御家人より、幕府を守るために奔走した事実は意味深である。ある意味、侍でなかったからこそ、近藤たちは”侍よりも侍らしく”生きたのかもしれない。

新撰組は京都に駐屯し、池田屋事件や大仏騒動などで多くの勤皇の志士を取り締まり、全国諸藩に名を馳せた。その後鳥羽・伏見の戦いで敗れ、幕府軍艦にて江戸に戻ったもの、以降は劣勢が続き、北海道の地にて戊辰戦争が終結すると同時に新選組は歴史の闇に消え去った。

新撰組局長である近藤勇は甲州勝沼の戦いにて、新政府軍の前に敗れ、再び兵を集めて千葉の流山に屯集していたところを新政府軍に包囲された。近藤は正体を偽って官軍に出頭したのだが、官軍側に近藤勇の顔を知る元新撰組隊士がおり、近藤本人と特定され、捕縛されることとなる。そして、慶応4年4月25日に板橋刑場にて斬首された。



斬首された首は板橋と大坂の千日前、京都の三条河原にて、晒し首にされたのだが、その後、「近藤勇の首」がどこに埋められたのかは不明であるという。一説には、近藤の縁戚が持ち去ったとも、新撰組隊士が奪って逃げたともいわれているが、詳細は不明なままである。

現在、近藤勇の首塚や墓所は日本各地に存在する。愛知県岡崎市の法蔵寺、東京都三鷹市の龍源寺(ここは胴体のみという説が強い)、板橋駅前にもあり、また山形県や福島県(福島の墓所は土方歳三が参拝していたという逸話もある)にも残っている。

筆者が一番心情的に信じたい説は「岡崎説」であり、近藤勇の遺体は東本願寺が受け取って一度埋葬したのだが、後に新撰組隊士の斉藤一によって奪還されて、愛知県岡崎市の宝蔵寺に葬られたといわれているそうだ。それにしても、どの墓所にもそれなりの理由があり、どれも本物の首塚として地元では敬われている。

どの地に近藤が眠っているのかは、墓を暴き埋葬された遺骨と、現在の子孫とのDNA照合でもしない限り謎のままである。一方で確実に近藤が眠っていないと判明している近藤勇の墓所も存在する。それは板橋駅前にある近藤勇の場所だ。この墓所は、新撰組の生き残りである永倉新八によって建てられたもので、土方歳三と近藤勇の二名の名前が連なって墓所になっている。永倉新八は、旧友である近藤勇や土方歳三の偉業を後世に残すために、板橋刑場付近に近藤の供養塔を建立したのだ。

だが、墓に刻まれた近藤勇宜昌という名前が間違っているのだ、本来は近藤勇昌宜が正しい。老境にあった永倉新八がうっかり間違えたのだ。今頃、あの世で頭を掻いているに違いない。新撰組のロマンは続く。



山口敏太郎



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