●更新日 07/27●

レラコラチ 〜風のように〜


1976年8月3日。
アイヌ民族の心の叫びを表現し続け、民族の復権や文化の伝承に生涯を捧げた男が逝去した。
森竹竹市(俳号・筑堂)、享年74歳。
アイヌ名を『イタクノト』と言った。


アイヌ【Ainu】(人間の意)
かつては北海道・東北、樺太(サハリン)・千島列島に居住したが、現在は主として北海道に居住する先住民族。人種の系統は明らかでない。
かつては鮭・鱒などの川漁や鹿などの狩猟、野生植物の採集を主とし、一部は海獣猟も行った。
近世以降は松前藩の過酷な支配や明治政府の開拓政策・同化政策などにより、固有の慣習や文化の多くが失われ、人口も激減したが、近年文化の継承運動が進む。
口承文学ユーカラなどを伝える。
〜広辞苑 第五版 より


3000ページ近い分厚さに約1400万字が収められた辞書の中、たった十数行で述べられるアイヌ民族。
北方の先住者であったその民族の歴史と文化は、余りに知られていない。

当記者が、北海道に生まれ育ち、そして森竹竹市の生きたこの白老(しらおい)という町に暮らし始めて10年経つ。
しかし、彼の名を知ったのは、ほんの数ヶ月前である。
白老ポロトコタン・アイヌ民族博物館を訪れた際、館長の中村齋氏に森竹竹市というアイヌが存在した事と、彼が遺した一編の詩を教えられた。

  「住家」
  コタン(集落)に又 柾家建つ
  喜び喩へんにものなし
  我常に思へらく
  数萬の富 我にあらば
  いかでか此の草小屋を
  此の儘にして置くべきと
  世人がなべて
  我等を嘲る事の
  此の原始的な草小屋に
  住居する爲なるを思えば
  いざウタリ(同族)等よ
  我等は常に勵み蓄へ
  善き家を築き
  子孫に残さん
  〜森竹竹市『若きアイヌの詩集〜原始林』白老・ピリカ詩社発行より

同胞の行く末を憂いて、自らの行く道を決意した若きアイヌの烈々たる姿が目に浮かぶ。

竹市は1902年2月23日、北海道白老コタンで、父エヘチカリ、母オテエの長男として誕生した。
3歳の頃、父を亡くし、貧困と差別の中、苦学し郵便局臨時雇員になり、それから国鉄職員となる。
この間、竹市は文学的な出会いにも恵まれ、俳句、短歌、詩と、あらゆる分野の作品を手掛け、表現し続ける。
そして、立派な和人(日本人)になるべくして学び、暮らしながら、次第にアイヌ民族の文化復権に目覚めていく。
国鉄時代は労働組合委員に選出される程の人望を持ち、国鉄教習所車掌科も終了するが、何故か車掌にはなれなかった。
1935年、33歳の若さで国鉄を退職した竹市は、故郷白老村(現・町)で漁業や食堂経営をしながら、『若きアイヌの詩集〜原始林』を自費出版する。
3年後、村会議員を務め、44歳の頃には、北海道アイヌ協会(現・北海道ウタリ協会)設立と共に常任理事へ就任。
その後、59歳で昭和新山アイヌ記念館館長、65歳で白老民俗資料館(現・アイヌ民族博物館)初代館長として、文化の伝承、普及に尽力する。


今、手許に1冊の本がある。
タイトルを『レラコラチ〜風のように』と言う。
「レラコラチ」とはアイヌ語で「風のように」という意味である。
竹市のアイヌ語の詩『ユーカルの旅』からとられた(原文では“風のよに”)。
この本は、竹市没後の翌年、山川力氏によって編集、えぞやより刊行された。
凛として起つ森竹竹市「エカシ(アイヌ語で長老の意)」の肖像から始まり、直筆原稿や書簡の写真、詩、俳句、短歌、随筆、エカシを偲ぶ寄稿などが余す所無く載っている。

「最後のアイヌ」を自認した、この尊敬すべき異民族のエカシと話し、酒を酌み交わせなかった悔しさに加え、生きる時代や取り巻く環境は違えども、彼の生きた地に私も暮らしている事へ万感を込める。



森竹竹市没後28年の今、7月29日静岡を皮切りに、8月末に熊本、10月初旬に東京と、全国3箇所を巡る展示会があります。
興味を持たれた方は、是非。

協力:アイヌ民族博物館、仙台藩白老元陣屋資料館



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