●更新日 07/12●

橋本真也さん、ご逝去にあてて……。


2005年7月11日午後2時45分。PCのに向かい書類を作成していた私は、内線電話の「休憩だよ」の声に、3階にある部屋を出て1階の工場へ降りて職場の仲間達と麦茶を酌み交しながら談笑していた。2時49分、携帯電話からメールの着信を告げるメロディが流れメッセージを開く。プロレスを一緒に見にいく女の子からのメールだった。そこには
「橋本真也が死んじゃった」
とだけ書かれていた。悪い冗談だと思い「どういうこと?」と半ば怒り気味に返事をすると、「脳内出血で倒れて・・・」冗談で無いことは、その後次から次へと届く友人達からのメールで自覚させられるのであった。

橋本真也さんと初めて会ったのは、彼がデビューした年の翌年正月、越谷市民体育館の入り口であった。選手用のバスから大きな荷物を抱えて体育館に向かう橋本さんと、一瞬だけ目が合った。私が高校3年生の時である。もっとも橋本さんが私のことを意識する筈も無く、ただ「良い目をしているなぁ」と彼の将来に一ファンとして大きな期待を寄せるだけに留まった。

当時の私は身長こそ今と変らぬまでに(181cm)成長を遂げていたものの、体の線は細くただのファンとしてだけの思いがあったのだが、肉体労働や筋トレと牛乳により見る見る体が大きくなるに連れ、橋本さんに似ていると頻繁に言われるようになり橋本さんを十二分に意識しだしたのは彼がヤングライオン杯の決勝で蝶野選手に敗れた試合が全国ネットで放送された頃だった。やがて橋本さんは知名度を全国区に上げると、120kgまでに成長していた私も橋本さんと間違われるようになり、変なプレッシャーを感じることもしばしばであったが、それに比例して橋本さんへの親近感も日に日に増していった。

もともとは普通のサラリーマンであった私は、それでも橋本さんは雲の上の人。ただ憧れるだけの存在であった。現に橋本さんが小川選手に敗れて「引退」を口にされた時などは、職場の同僚達に訴えかけて引退撤回祈願の折鶴を数千羽集めたりもした。それが何処でどう間違えたのか、この私が芸能界を目指すようになり再現VTRで橋本さんの役を仰せつかったときは天にも昇る気持ちであった。そんな感じで鳴かず飛ばずの日々を悶々と過ごしていたある日、数日前にオーディションを受けようとプロフィールを送っていた事務所から電話が入る。「ちょっと急な話で申し訳ないんだけど、明日来てくれるかなぁ」。オーディションの日程はまだまだ先のはずなのになんだろうと思い、翌日事務所を訪ねてみると「映画のキャストで大きい人間を募集しているんだけど・・・、主役は橋本真也で『あゝ!一軒家プロレス』っていうやつ」と。私は自分の耳を疑った。橋本真也?すぐに浮き足立って、頭の位置をそのままに胸から下が宙に浮き上がっているような、そんな不思議な感覚に見舞われるほど、それほど舞い上がっていた。結局、”とんび1号”という覆面レスラーの役をもらい、橋本さん扮する獅子王耕太の弟子として行動を共にすることになり歓喜は頂点を極めんとしている中、事務所から電話が入る。「なんか橋本選手が膝や腰の状態が良くなく立っているのも辛いようなので、橋本さんのスタンドインとして彼と同じスケジュールで出て欲しいって製作部が言ってきたんだけど・・・」「是非、お願いします!」。NOと言う筈が無い。かくして私と橋本真也さんの、熾烈な45日間が始まることになる。

橋本さんと同じ時間過ごして感じたことは、彼はとても無邪気な人、純粋な人であること。欲しいものは欲しいし、好きなものは好き。そのストレートな気持ちは時には誤解を受けたりトラブルの元になったりもするのであろうが、逆にその一途さゆえに彼が日本プロレス界のトップレスラーにまで這い上がる原動力になりえたのだと思う。撮影中には、顔面血だらけのメイクを施されたままメイクさんと追いかけっこ紛いの遊びを楽しんでいたり、セットの槍を見つけるとそれを気に入ってずっと持っていたり、軽井沢ロケの時などは、皆が悲鳴を上げて恐れたスズメバチを捕まえて針を抜いたりなど、まさに永遠のガキ大将だった。よく当時のマネージャーさん(細身のおじさん)が肩や首のマッサージをさせられていて、見ていてあまりにも気の毒なので私が代わりにやったりもしたが肩・首の凝りは半端ではなかった。ベンチプレスで200kgを挙げていたいた私が舌を巻くほど凝っていたその首・肩は、今思えばその頃から脳への血流の異変を物語っていたのかもしれない。某シーンでは敵にぶちのめされた弟子達の姿に込み上げる怒りを抑えるシーンで本当の鼻血がスーッと一筋流れたりもしたが、これは現場にいた人しか知らない事実であり映画を見られた方はこれも演出だろうと思ったに違いない。私は「血圧が高いのでは?」と少し心配していた。

朝早くから夜中まで続けられる撮影は連日に渡り繰り返されるため、橋本さんのコンディショニングなどは出来るはずも無かった。撮影の合間を縫って試合に出たり、プロレスの打ち合わせ(長州選手との密会)等に時間を割いていた橋本さんは心身ともにボロボロであったことは容易に想像できる。だってこの私が現場に通うだけでも辛かったのに、橋本さんは主役の重圧に加え大掛かりなアクション(1つのバトルに丸々2〜3日掛かる)をこなしているのだから。後日、当時のマネージャーの駒村さんに話を聞いたところ、実は橋本さんは心臓が悪く早朝起きるのも相当に辛かったようで、でも多少の遅刻はありながらもスケジュールに穴を開けるようなことは皆無であったことは、橋本さんの責任感の強さであると思える。心臓が悪いことをずっと隠していたのは、プロレスラーは強いというイメージをずっと守り通していたのだと思う。

打ち上げの時に「いてくれて助かったよ」と笑顔で私の手を握ってくれたときは人目もはばからずに泣き出しそうなほどに感極まった。これでまた以前の別々の生活に戻ってしまうのが寂しくてたまらなかった。劇中のプロレス団体ZEROの連中とも、「一軒家プロレス2」を望む声を冗談半分に口にしていたが、それも今となっては叶わぬ夢になっちゃった。だってそこに獅子王耕太はいないんだもん。

橋本さんが新日本プロレスを離れてからは数回だけZERO-ONEの興行を見に行ったが、新日派の自分は経済的理由もあり橋本さんの試合から足が遠のいていたが、昨年10月、新日本プロレス両国大会で蝶野選手の20周年を祝うべく、花束を持って現れた橋本さんには新日マット復帰の期待が大きく膨らんだが、それが元で自分の団体ZERO−ONEから追放され肩の手術も合い重なって公の場から姿を消していたが、最近になってリング復帰も間近という情報も流れて大いに期待していたのだが、その矢先の冒頭の訃報であった。最近発売された『あゝ!一軒家プロレス』のDVDを見ながら一つ一つのシーンを、ZEROの仲間を、そして橋本真也という憧れのスーパースターと過ごした日々を懐かしく思い出していたのがまさに昨日のことであった。だから未だに信じられない。信じたくない。どんなに新聞の一面を飾ろうが、TVで報道されようが、信じたくない。もともと私のそばにはいない人なのだからこのままでいいのだ。『あゝ!一軒家プロレス2』をやらなければ獅子王耕太がここにいないことなど誰も気付かない。そうすれば橋本真也は永遠に生きる、私の中でだけは・・・

橋本さんから学んだことはファンとしても、共演者としてもとても大きいものである。橋本さんがもういないことを信じなくたって良いじゃない。私は彼から学んだことを胸に強く前に進みたい。後退も足踏みもしない。今までは橋本真也のそっくりさん。これからは2代目破壊王として私の後ろに橋本真也を感じさせる、そんな役者になれることを目指します。
橋本さんと共に生きていくために。



この手記は、橋本選手と映画撮影の際、ずっと一緒に現場で過ごしていた、とある役者のメールを元に書き起こしたものである。
破壊王橋本真也選手のご冥福を心からお祈りいたします。


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