平和への祈り
〜 原爆ドーム・広島記念資料館 〜


昭和回顧シリーズ第1弾。
今回は、原点復帰の意味も含めて、広島市にある『原爆ドーム』と『広島記念資料館』を取材して参りました。
核の…そして戦争の恐ろしさを、ご存じない方は”知る事”、ご存知の方は”見つめ直す”と言う意味で読んで頂きたく思います。
最初に、”第2次世界大戦”と”原爆”について簡単に説明を。


第2次世界大戦勃発。日本とアメリカ交戦状態へ。
・当初、優位に立っていた日本だが、アメリカの物量と技術により、苦戦を強いられる。
『ヤルタ会議(1945年2月)』により、「ソ連」参戦決定。
・早々に戦争を終らせたかったアメリカは、終戦の切り札として”原爆”使用を決定する。
・そして…1945年8月6日「エノラ・ゲイ」(B29爆撃機)から「リトル・ボーイ」(原子爆弾)が投下される。
 8時15分…通勤・通学で込み合う広島市の上空で、原爆は炸裂し、広島市を火の海と化した…。

簡単ではありますが、これが原爆投下までの流れです。
それでは順を追って、お話を進めたいと思います。
まずは、広島で1番有名なこちら、

写真

原爆ドーム。
もともとは、「広島県産業奨励館」。この建物から直ぐの場所が、原爆の爆心地となりました。
建物のガラスや屋根は吹き飛び、頑強なレンガ造りが半壊状態となった。現在も生々しく残るその傷痕に、爆風の強烈さを感じさせられます…。

写真 写真

こちらは、「平和記念公園」に全国から届いた折鶴など。
「原爆の子の像」の下には数え切れないほどの折鶴が置かれておりました。それだけ、心から平和を望む人々が多いと言う事なのでしょう。

写真

平和記念公園を奥に進むと見えてくる建物が、有名な「広島平和記念資料館」です。
それでは中に入ってみましょう。

写真 写真

左の画像は、爆発直後の広島市内を表した模型です。画像の上部にぽこっと出ているのが原爆ドームです。
爆心地(グランド・ゼロ)から2Km四方は、ほぼ焼け野原と化しました。勿論、その周辺にいた多くの方々も一瞬にして命を失いました。
右の画像は、実際に焼け野原となった広島市内の写真のパネルです。広範囲に渡って荒廃しているのが解ります。

写真
▲展示された品々

写真

これは、被爆された方をリアルに表現した人形です。
被爆された方々は、そのあまりに強い熱線によって、皮膚がただれ、手や足からドロドロと垂れ下がってしまうのです。
これに生き延びたとしても、放射能による後遺症は強く、更に多くの方が亡くなりました。

写真

これは、原爆が炸裂した瞬間(8時15分)の時を刻んで静止したまま、永遠に動かない時計です。

写真

これは、原爆の熱によって瞬間的に溶解し、くっついてしまった大量のガラスの小瓶です。


広島に原爆が投下された理由としては、「都市の大きさや地形が実験に適していた」「軍事施設が集中していた」などと推測されております。
理由が何にせよ、原爆によって日本(広島・長崎)が被害を受けたのは事実です。
アメリカの言い分もあるでしょう。
しかし、1番の原因は”お互いに戦争を行ってしまった事”です。
現在の私達、日本人は戦争の恐ろしさを知らない世代となってきております。今が戦後であり、戦前とならぬ為にも、もう一度見直す必要があるのではないでしょうか?

2度と過ちを犯さぬように、祈りを込めて…。

写真



追記
片手切られた米の「原爆の子」像、修復募金待つ



( 探偵ファイル・キム )


探偵ファイルTOPへ戻る