昭和事件史シリーズ 『ロス疑惑』
〜 「殴打事件」「銃撃事件」とは? 〜


『ロス疑惑』…この名を聞いた事があるだろうか? おそらく、20代後半の方なら内容を知らずとも、耳にした事があるだろう。 そう。今から19年前、世間を騒然かつ狂乱の渦に巻き込んだ有名な事件である。 当時、様々な疑惑が取り沙汰されたが、渦中の人物でもあった「三浦和義」氏の逮捕と言う事で、一端は事件の幕は閉じた。 しかし、衝撃的な逮捕劇後の展開をご存知だろうか? 去る2003年3月6日、真犯人と目されていた三浦氏の無罪が確定したのだ。


銃撃事件発生から21年という長い時間を費やした『ロス疑惑』とは、一体何だったのだろうか? 今回は、この事件がどのようなモノだったのかを“第三者の視点”から振り返ってみたいと思う。
(註:ロス疑惑について検証した記事・サイトは無数に存在するので、あくまでおおまかな内容と経過のみとする)


1.発端 ―――『銃撃事件』

●1981年(昭和56年)11月18日 事件発生
アメリカのロスアンジェルスで、一組の夫婦が強盗に襲われるという事件に遭った。 夫は“左太腿”、妻は“顔面左頬”に銃弾を受けての重傷であった。 この夫妻こそ、現在でも多くの謎を含み、絶えぬ議論の中心となる人物、「三浦和義」氏と妻の「一美」さんであった。
夫妻は、直ぐにカリフォルニアの病院に運び込まれた。 2人とも一命は取り留めたもの、一美さんは完全な植物人間と化し、復帰は見込まれないとされた。 夫和義氏と一美さんの両親にとって非常に辛く・許せない絶望的な結果となった。
犯人はラテン系の2人組。 1人は長髪を後ろで束ねたサングラスの男であったという(三浦氏談)。 あまりに残虐な仕打ちに怒りを感じた三浦氏は、「合衆国大統領」「カリフォルニア州知事」「ロスアンジェルス市長」へと抗議文を送るなどの行動を起こした。
更に、2人には生まれて間も無い娘が居た。 ドラマティックなニュース性に、日本のマスコミは各社こぞって“美談の人”“悲劇の人”として三浦夫妻を取り上げた。
更に事態は進み、一美さんを日本の東海大付属病院に米軍のヘリコプターを使って移送する際、ニュースでは...下りて来るヘリに向かって発炎筒を振り、着地したヘリに向かってまだ痛む足を引き摺りながら駆け寄り、「一美!」と涙する場面が繰り返し流された。 三浦氏はますます悲劇の人として注目されるようになり、世間の人々の多くはこの夫妻に同情し、涙した。
後に、一美さんは東海大付属病院で、小康状態と発作を繰り返しながら、事件から1年が経過した1982年(昭和57年)11月30日、遂に意識が戻らぬままひっそりと永眠された。 これが世に言う『銃撃事件』である。


2.綻び ―――『疑惑の銃弾』

アメリカでの強盗銃撃事件から2年が経過した。 人口に膾炙した美談の人「三浦和義」氏の名が人々の記憶から消え去ろうとしていた時、事態は急変する。

●1984年(昭和59年)1月19日 週刊文春『疑惑の銃弾』シリーズ開始


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      写真3
      ▲週刊文春 1984.1.26号(1/19発売)『疑惑の銃弾』シリーズの第1回である

1984年1月19日発売の『週間文春』に於いて、三浦氏が遭遇した銃撃事件についての記事が掲載された。 内容は、2年前にアメリカで銃撃事件に遭遇し、妻は死亡。 本人も太腿を負傷したこの事件が、実は全て三浦氏が企んだ“保険金殺人”であった事を告発するものであった。
その額1億5000万円! 内訳は、AIU保険7500万円・千代田生命5000万円・第一生命3000万で、計1億5500万円。 更にAIU保険が出した治療費も合わせると総額1億6600万円まで跳ね上がるものであった。
この週間文春の記事が発端となり、世間は未曾有の『疑惑の銃弾』フィーバーとなった。 マスコミによって“美談の人”に祭り上げられた三浦氏は、極端とも言えるほど翻り、“疑惑の人”“真犯人”となった。 妻の為に大統領に抗議文を送ったり、妻の為に発炎筒を振り、ベッドへ駆け寄り涙したのも、全て演技であったと言うのだ。 世間は火がついた藁くずの様に、一瞬にして怒りに包まれていった。

当時、マスコミがこぞって取り上げた内容を挙げると...
  • 若くして会社社長。会社も大成功して順風満帆
  • 妻である一美さんが亡くなられたばかりなのに、もう元モデルの美人と同棲している
  • 愛人と同棲している1億の豪邸は、保険金で建てたものだ
  • 長身の上、ハンサムで金持ち。何人もの愛人を抱えている
などであった。 この事から、2年前に同情し、涙した世間の人々は裏切られたと言う思いと、純粋な程の“嫉妬”により、三浦氏を極悪人として見るようになって行った。


3.追撃 ―――『矢沢証言』

『銃撃事件』が週間文春で発表されてから三浦氏の近辺は大いに変貌した。 連日に渡るマスコミ攻勢、彼を非難する電話・手紙の数々。 どこの局・出版社も視聴率を取る為、発行部数を上げる為に三浦氏の過去や私生活を競って暴き立て、ワイドショーで扱われるニュースは日を追うごとにエスカレートしていった。
正にプライバシーと呼ばれるものが一切存在しない状況となり、三浦氏自身の生活も会社経営もガタガタとなった。 この事に疲れた三浦夫妻(愛人であった「良枝」さんとは3月30日に入籍済み)は、1984年(昭和59年)4月20日ヨーロッパへと新婚旅行として脱出していった。 そして1ヶ月後、事件は衝撃と共に新たな局面を迎えた。

●1984年(昭和59年)5月17日 サンケイ新聞『矢沢証言』

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      ▲サンケイ新聞(現産経新聞)1984年5月16日朝刊 大いに物議を醸し出した『矢沢証言』の始まり

なんと、銃撃事件の3ヶ月前に三浦氏から一美さん殺害を依頼されたという女性が現れたのだ。 女性が語る「殴打事件」の話は以前より、関係者の間では広く囁かれていた事柄であった。 この女性、元女優の「矢沢美智子」さんの証言から、三浦氏の保険金殺人が計画的犯行であった信憑性が増していった。 では、矢沢さんが触れた『殴打事件』がいかなるものであったか、時系列を遡って解説したい。


4.遡行 ―――『殴打事件』

●1981年(昭和56年)8月13日 ロスアンジェルス ホテル・ニューオータニ
三浦夫妻が銃撃事件に遭う3ヵ月前の事だった。 仕事と妻一美さんの観光の為に渡米し、ホテル・ニューオータニ1階のカナリーガーデンで商談をしている時、三浦氏は場内放送で一美さんに呼び出され、宿泊していた2012号室へと駆け上がった。 そこにはぐったりしている一美さんと、1人の女性が居た。
一美さんは頭から血を流し、ベッドに腰掛けていた。 三浦氏は即座にこの女性を叱咤と共に追い出した。 頭に傷を負っている一美さんを心配した三浦氏は救急車を手配。
しかし、ホテルに来た救急隊員は「大した事ないから」という理由からそのまま帰って行った。 次に三浦氏は日系人が開業する診療所に一美さんを連れて行った。 そこでは傷口を5針縫い、全治1週間と診断された。 何ゆえ、一美さんは怪我をしたのか?
実は現場に居た女性こそ、当時三浦氏の愛人であった矢沢さんだったのだ。

この事件について、彼女が語ったいわゆる『矢沢証言』と言われるものの要点は以下の通りである。
  • 保険金を手に入れる為に、一美さんを殺すように三浦氏に指示された
  • 殺害方法は、T字型の金属(ハンマー)で何度も殴る事
  • 中国人の洋服屋が行く事になっているから、部屋に入った時に殺れと言われた
  • 保険金が出たら結婚しようと言われその気になった
  • 事態の重大性に気付き、怖くなってしまい、三浦氏に狙われている事を伝える為に部屋に行った
  • 部屋に入り、ぼうっとしていたところ、布袋を奪いに来た一美さんと揉み合っている時にガツンと一美さんの頭部に当たってしまった。
一美さんが矢沢さんに殴られて怪我をしたと言われているこの事件が、『ロス疑惑』の片翼を担う『殴打事件』である。


5.逮捕 ―――『ロス疑惑』

『殴打事件』そして『銃撃事件』。 この2つが結びつき、化学反応を起こした時、『ロス疑惑』と呼ばれるものが生まれた。 そして世間を席巻し、狂乱の渦(発狂と呼んでも良い)へと巻き込んでいったのである。 人々は三浦氏の逮捕を願い、埒の上がらない警察に不満の声を上げた。 いつしか“三浦氏逮捕Xデー”が囁かれるようになり、何度もデマが飛び交った末、遂に日本中の誰もが待ち望んでいたその時が来た。

●1985年(昭和60年)9月11日 三浦氏逮捕
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      写真6
      ▲毎日新聞
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      ▲朝日新聞 1985年9月12日号
1985年9月11日。 遂に三浦氏は逮捕された。 銀座東急ホテルでの雑誌社からの取材を終え、駐車場から愛車であるフェアレディZで発進しようとしていた所を捜査員が押さえての逮捕であった。 パトカーに乗せられた三浦氏は警視庁正門の直前で降ろされ、300人以上のマスコミが待ち受ける中を歩かされた。 この“引き回し”の光景は一挙手一投足まで漏らす事無く、メディアで放映された。 世間の人々はこの姿を観て、大いに感動した。 “保険金殺人で大儲けした憎い三浦が逮捕された!”…と。

こうして事件は一旦幕を閉じた。――― 一般の大衆の目からは。
ここまでの展開を覚えている方はいらっしゃるだろう。 しかし、三浦氏逮捕後の展開をご存知だろうか? 以下に裁判とその判決結果について記す。


6.法廷 ―――『裁判での戦い』

●1987年(昭和62年)8月7日 『殴打事件』第一審判決
矢沢証言を元にして、裁判は進められた。 結果…殺人未遂事件とし、懲役6年の実刑判決が下る。 なお、矢沢さん自身も“悪質な行為”として懲役2年6ヶ月の実刑となった。
1986年(昭和61年)1月14日の初公判から、足掛けで1年以上に渡る長い裁判であった。 この裁判での矢沢さんの発言に無数に存在した事実誤認内容(特に、“ハンマーなどは存在していなかった”と主張)に三浦氏は即座に控訴を行った。

●1988年(昭和63年)10月20日 『銃撃事件』殺人容疑で再逮捕
銃撃事件の犯人が三浦氏であると踏んだ警視庁は、“殺人罪”及び“詐欺罪”の容疑で再逮捕に踏み切った。 拘置所で生活していた三浦氏は、留置所へと移されることになった。 また、アメリカでのビジネスのパートナーだった「大久保美邦」氏も銃撃事件の実行行為者として逮捕された。

●1994年(平成6年)3月31日 『銃撃事件』第一審判決
三浦氏に対する殺人・詐欺、大久保氏に対する殺人・銃砲刀剣類所持取締法違反・火薬類取締法違反についての判決が出た。 三浦氏、無期懲役。 大久保氏、懲役1年6ヶ月執行猶予3年というものだった。 この裁判に於いて、大久保氏の銃撃事件への関与は否定(無罪)されたが、三浦氏は“氏名不詳者”との共謀として有罪となった。 実刑が出た訳だが、判決には限りなく多くの疑問点が存在した。 客観的に見て、内容も証拠不十分な上、“氏名不詳者”に犯行を行わせたから罪という杜撰なものであった。 無罪を確信していた三浦氏は、この日号泣したという。 判決を不服とした三浦氏は控訴を行った。

●1994年(平成6年)6月22日 『殴打事件』第二審判決
『殴打事件』第一審での矢沢さんの発言に対する控訴審だが、思わぬところから三浦氏は攻撃を食らう事となる。 大久保氏が三浦氏からハンマーを見せられたと証言したのである。 三浦氏にとって正に青天の霹靂であった。 この事から、一美さんに対する計画的犯行であった事を否認する三浦氏はますます窮地に立たされた。 結果…三浦氏の控訴を棄却とされた。 しかし、大久保氏の証言にも疑問点が多く存在した。 裏で検察が手を伸ばしていた可能性があるというのだ。 三浦氏は上告を行った。

●1998年(平成10年)7月1日 『銃撃事件』第二審判決
第一審に於いて有罪となった三浦氏だが、二審の裁判官は適正にその内容を把握し、三浦氏の主張と事件当日の目撃者の証言が一致した事と、無罪である事の数々の証拠の立証などから、明確に無罪を言い渡した。 第一審の判決が誤りであった事を完全に認める内容であった。 検察側は判決を不服とし、上告を行った。

●1998年(平成10年)9月16日 『殴打事件』最高裁判決
判決結果…三浦氏の上告を棄却。 一審で挙げられた懲役6年の収監が確定した。

●1998年(平成10年)11月17日 宮城刑務所収監
殴打事件有罪として、三浦氏は宮城刑務所に収監された。 ただし、未決拘留日数を差し引いて考える為、収監期間は2年2ヶ月とされた。

●2001年(平成13年)1月17日 宮城刑務所釈放
三浦氏の新たな人生が始まった日である。

そして…、

●2003年(平成15年)3月6日 『銃撃事件』最高裁判決
最高裁に於いて、検察の上告を棄却する旨が三浦氏に報せられた。 つまり、逆転無罪が確定したのだ。 これが今回の冒頭のニュースへと繋がる。



以上がロス疑惑についての一連の流れである。 この事柄に対する意見や反論もあるだろうが、要点と経過のみを集めたものとしてご理解頂きたいと思う。 また、「白石千鶴子」さんと「ジューン・ドー88」に対しては、内容が複雑になる上に混乱の原因となる虞があるので割愛した。

時代を超えて世間の注目を浴びることとなった『ロス疑惑』。 その結末は、三浦氏の無罪とというものだった。 不服に思う方や、認められない方もいらっしゃる事だろう。 だが、それは果たして貴方自身の意思・意見だろうか? 巧妙にマスコミに誘導されたモノでは無いだろうか? もう一度、客観的な目で見直して欲しい。 テレビで一目しただけで、雑誌で一読しただけで判断するのは早計である。 中立の立場(第三者の視点)で見たとしても、マスコミ・メディアのあり方には多くの問題点があったのは事実だ。 この事件は、ただの保険金殺人事件に留まらず、マスコミの姿勢・視聴者の認識に一石を投じるモノである事を最後に記したいと思う。

次回、事件の渦中の人物であり、無罪が確定した三浦和義氏への探偵ファイル独占インタビューに絡めて、当時の様子を解説したい。


    ● 三浦和義氏公式サイト
    http://www.0823.org/

    ● ロス疑惑に対する参考リンク
    http://ngp-mac.com/kumarin/index.cgi?0045

    ● 参考文献
    「三浦和義との戦い」安倍隆典 著
    「三浦和義事件」島田荘司 著
    「不透明な時」三浦和義 著
    「NEVER〜ネヴァ」三浦和義 著
    「LOVER〜ラヴァ」三浦良枝 著
    「週間金曜日」3月21日号・3月28日号

    ● 参考資料 『裁判用語辞典』



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