八乙女駅前交差点2


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仙台市営地下鉄八乙女駅前の交差点は以前から交通事故が多発していた。
事態を重く見た仙台市当局が調査を行ったところ、この場所は昔、伊達藩の処刑場であったことが判明。そこで下の写真にある「交通事故死没者慰霊塔」を建立したところ、事故が少なくなったという、いわくつきの場所である。

※上記の情報から『交通事故死没者慰霊塔』が建てられた経緯や交通事故多発と『処刑場(七北田刑場)』との関係を調査し、過去の交通事故が処刑者の霊の仕業であるか、またはその他の要因が強く影響しているものなのか歴史的な観点から『交通事故死没者慰霊塔』と『処刑場(七北田刑場)』の関係について調査を開始した。

広域地図


『交通事故死没者慰霊塔』
拡大地図




『七北田刑場』



交通事故死没者慰霊塔

旧国道4号線(現・県道仙台泉線)念仏坂旧国道との分かれ道に立つ碑。七北田刑場跡周辺200bほどの区間は交通事故多発地帯であって、昭和28年以後、約10年間に事故死20人を出したほどであり、お仕置(刑場)の場所でろくに供養もしないからだと噂された。ところがこの周辺の主婦たちは以前から、毎年旧6月19日を刑場跡の地蔵さんの縁日として、前日から草をとり掃除をし、当日は赤飯を供え、みんなで懇ろに供養につとめてきた。遠くは福島や岩手方面からも忘れずに供養に来る人もいた。
またいつの頃からか頭痛みに霊験ありと伝えられている。願をかけた人たちの礼参りもあったが、たまたま通り掛かった霊能者があまりの霊の多さ、強さに逃げ出したということもあった。
昭和39年8月、事故者の霊を慰め、かつ無事故祈願にと、交通安全協会の諏訪部七北田支部長が町民に呼びかけ、淨財約10万円で稲井石の供養碑を建立し犠牲者20名の名前が刻まれている。



仙台藩七北田刑場

仙台藩の刑場は、元禄3年頃まで仙台琵琶首(現在の花壇)にあったが、周辺から嫌われて、この年、(1690年)に現在の仙台市七北田に移転した。奥州街道の傍らである。周辺の人々は「お仕置場」と呼んでいた。ここでお仕置される人は、武士以下の凡下・百姓・町人など一般庶民層の罪人であった。武士でも獄門になるときは凡下に格下げして処刑した。お仕置には斬首・磔・火焙・獄門(さらしくび)等の刑罰があった。
刑死者の葬儀は行なわれることは無く、墓碑を立てることも許されなかった。
延享3年(1746年)五代藩主吉村夫人長松院の遺言によって、藩では七北田刑場の南北約百bの地に二つの常念仏堂を建てた。南を『河南堂』、北は『河北堂』と称し、河南・河北の河は川で、三途の川の意味だという。両堂とも単層三間四面の萱葺の堂であったらしい。河南堂は、日向坂の上り口付近で東向、東昌寺霊応住職の揮毫になる扁額『抜苦』を掲げた。この扁額は洞雲寺に現存する。河北堂は北側念仏坂を下った平地に東向、『与楽』の扁額を掲げてあった。
念仏堂の管掌は、仙台市泉区にある「山の寺どううんじ洞雲寺」が命じられ、両堂に二人宛ての老僧が派遣され、昼夜念仏と鐘の音を絶やさなかった。
刑執行日には長松院夫人の遺言通り、涅槃の軸を掲げ刑死者の人数と同数の蝋燭をともし、刑執行が一人終わるごとに灯明は一つ消えていった。お仕置があると近郷の山の寺・実相寺・法昌寺(丸田沢)・清水寺・善正寺・淨満寺・柳沢寺の寺々の弔いの鐘の音が響いていたという。

≪首切り地蔵≫


説明板仙台藩の刑場は、元禄三年(1690年)頃より明治維新まで180年にわたり、百姓町人等の一般庶民層の磔刑・火刑・斬刑などの刑罰が執行された。五代藩主吉村夫人長松院の命により、刑場の南に河南堂、北に河北堂の常念仏を建て、死刑者の霊を供養した。西を向いている地蔵様は、奥州街道(旧国道四号線)の東側にあったが、昭和五十四年十二月の道路拡張により現在地に移した。またこの地は、長崎でオランダ医学を学んだ木村寿禎が腑分(解剖)を行なったところといわれ、七北田刑場腑分供養碑が建ててあった。


七北田刑場

送りについて当時、七北田刑場送りとなった罪人は、(仙台市内にある牢屋があった場所)片平丁から脇丁―北目町―染師町―猿牽町―土樋に下り、西光院真福寺前―荒町昌伝院―仏眼寺―南鍛冶町―茶畑―連防小路―東四番丁―新伝馬町―大町―肴町―立町―本材木町―北材木町―国分町―二日町―北一番丁―北八番丁―大願寺通―新坂通―北山―堤町の坂を下って二軒茶屋に至って、刑者の所望では甘酒を飲まされた。青笹不動尊前から鷺ヶ森を経て、源太兵衛から一念坊沢の入口を過ぎ、仙台川にかかる『暗角の橋』に至る。ここで、処刑者は馬の背から下され、付き添ってきた縁者たちは最後の別れとなり、帰された。ここから目隠しをされ徒歩で刑場に向かった。刑場手前の老樹根元の清水湧く泉で、最後の水を柄杓で飲まされ、竹矢来の中に入れられて斬首された。お仕置き場から河北堂に下る坂道の獄門台に首をさらされた。




刑死人の人体解剖について

仙台藩で初めて人体解剖を試みたのは、藩医木村寿禎である。寿禎は寛政10年(1798年)12月19日、七北田刑場の刑死人の死体を解剖した。寿禎は長崎で蘭学を学んだ医師で、自ら執刀したという。ところが寿禎の高邁なる医療理想を察知できない世間は、「寿禎は最下層の刑死人を腑分(解剖)する穢ないことをした」と避難をあびせた。それ以来寿禎は生涯藩主の診療は許されず、天保5年61歳で死去している。しかし寿禎はかつて墓も許されない解剖した刑死者供養碑を建てたといわれ、寿禎の奥ゆかしさが偲ばれる。


付近の交通事情

慰霊碑が建てられる原因となった現在の県道22号線は仙台市の南北を繋ぐ重要な幹線道路として交通量も多い。この県道道路は昭和24年と27年にと2回の拡張工事を経て、慰霊碑が建てられている地下鉄八乙女駅付近は片側3車線となっている。
明治・大正・昭和初期において現在の八乙女周辺の旧国道4号線は未舗装のままであり、リヤカーや荷馬車などが通っていた。しかし、道路の拡張や自動車の普及で昭和35、6年頃から荷馬車などは消え去った。

旧国道4号線 現在の県道22号線


今回、「心霊マップ宮城」に掲載されている『八乙女交差点の怪』の原因となっている交通事故と刑場跡の関係を調査した。近年まで市営地下鉄や八乙女駅付近には「念仏」という地名が残されており、辺りは一変しているものの刑場があったことやその悲惨な光景は付近の人々に語り継がれている。
幕末まであった七北田刑場では、記録によると刑死者は6000人〜7000人と言われており、無実のまま処刑された人も居たという。刑死者は供養することが許されず、この七北田の地に埋められていたというが、昭和24年の道路拡張工事の際に刑場跡の山を削り取った際、過去に数千人の死体を埋めた地であるはずなのに人骨は全く出てこなかったと言う。
このことに対し周辺の住民の間では、死体は別の場所へ運んだという説や土に返ったのではなどと語られ、刑死者の名前を記録した名簿を現在の仙台市泉区にある「山の寺洞雲寺」に送ったという説があるが洞雲寺にはそのような名簿は存在しない。
このように罪人であろうと数多くの死者を出した七北田刑場跡地は当時の山は削られ、現在では幹線道路がその中央部分を走っている。拡張工事後から交通事故が多発した背景には、旧国道時代から見て車線が3倍になり、交通量としても飛躍的に多くなったことや、当時馬車や自転車などが交通の主であったものが自動車の普及により事故が多発したと警察署交通課では認識している。そして、『交通事故死没者慰霊塔』に名が刻まれた20人はこの七北田刑場跡から数百bも離れた場所の事故での死亡者も含んでいることなど、事故の原因が七北田刑場で処刑された人々の霊的な現象であるというより、時代を背景とした交通事情の変化がもたらした悲劇であると言える。
現在、地元の住人でもそこに刑場があったことを知らない若者も多く、刑場跡として残されている場所も数年前から近所で毎年行われていた供養も無くなり、付近に建つマンションの片隅に慰霊碑が小さく残っているだけである。多くの死者を出したこの七北田刑場の事実がある以上、成仏できぬ魂が辺りを彷徨い続けることは否定はできないが、今はその事実すら忘れさられている状況にあるといえる。