中河原海岸・マリア像




国道23号線を南に向かって走り、津市内に入ると海沿い近くを走るバイパスが出てくる。
バイパスに入り、橋を渡って左折し直進すれば県内で最も有名といえる「中河原海岸」にたどり着く。

この海岸は第2次大戦中の7月28日に爆撃された。隠れる場所も無く、砂に足を取られながらも人々は逃げ惑った。しかし逃げ切れる筈もなく、250名もの人間が戦死したのである。
かろうじて生き残った者たちは、この海岸で250体もの遺体を焼き、そこに埋めた。

それだけならば「呪われた」とは言えないかもしれないが、戦争が終わってしばらくたった7月28日に悲劇は起きたのだ。
戦争も終わり復興期に入った頃、この海岸に教諭に引率されてやってきた幼稚園児数十名が、海に引き込まれるようにして亡くなったのである。慌てて助けようとした教諭が見たものは、もんぺを穿き、防災頭巾をかぶった女たちが園児たちの足をつかんでいるという、身の毛もよだつ光景だった。
さらに「呪い」は続いた。昭和30年7月28日のことである。
水泳実習中の女子中学生36人が水中に引き込まれたのだ。辛くも助かった生徒の多くはやはり、もんぺと防災頭巾の姿を見たといい、ものすごい力で水中に引き込まれたと語った。
これでもまだ、7月28日が呪われた日ではないと言えるだろうか。

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私は今回、この海ではなく違うものを探していた。「マリア像」である。
マリア像は堤防を挟んで海の反対側の芝生で整備された敷地にあった。
私は高校時代に「マリア像が涙を流す」「マリア像の下で犬の散歩をしていた母と娘が強姦された」といった信憑性のない噂を聞いていた。
が、実際マリア像を見つけた瞬間、どっと体が重くなった。暗くて輪郭しか見えないが、マリア像が悲しい顔をしているのがわかった。マリア像に近づきながら数枚シャッターをおろす。使い捨てカメラも同様、数枚撮影した。そして再び私は海岸へと下りた。
今は海水浴場としての営業はされておらず、ゴミが散乱して異臭が漂っていた。
ここでも数枚撮影し、再度、マリア像に向かうことにした。
眼中にマリア像が入った瞬間、拒絶されている感じがした。「こっちに来るな」と言っている気がした。私は離れた所から合掌して車に戻った。


2日後、写真を現像してわかったのだが、使い捨てカメラの方がマリア像以降何も写っておらず、ネガも焼けなかったのだ。
私が撮影した写真も不可解なものが数枚あった。


あの時、本当にマリア像が私を拒絶したのだと確信した。



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