FC 西濃
今から33年前に岐阜県白川町の国道41号で観光バス15台のうち2台が土砂崩れに巻き込まれ、飛騨川に転落した。その犠牲者は104人にのぼり、現在もなお行方不明の方々がいて、その霊がさ迷っているらしい。
月日が経つにつれ風化されつつあるこの悲惨な転落事故自体今の若い世代の人々は知らないと思うが、現在その場所は心霊スポットとして不思議な現象が今でも起こっている事は、ご存知の方々も多数あることでしょう。
そこで事故の経緯から、不思議な怪奇現象までを調査する事とする。
この事故は今から33年前・・・・・
昭和43年8月17日 この日名古屋市の団地向け新聞社が、旅行代理店と共催した「乗鞍雲上ファミリーパーティー」と題して企画に募集して集まった、名古屋市内の主婦や子供とその家族を中心に730人が、北アルプス乗鞍岳観光として参加。
当初の予定では、17日午後9時30分に愛知県犬山市の成田山に集合し、岡崎観光バス(現在 名鉄東部観光)のバス15台に分乗し乗鞍岳へ向けて出発。バス車内で睡眠をとり、翌18日午前4時30分に山頂に着き、ご来光を見た後、夕方に犬山市に帰路という企画であった。
しかしこの日の東海地方の天候は寒冷前線が、本州を南下していて、さらに日本海を北上していた台風7号の影響で、台風に向かって南海上から運んできた湿舌といわれる暖かく湿った空気が東日本にどっと流れ込み、寒冷前線が重なって17日夜から18時未明にかけ岐阜県の上空を通過していた。
岐阜県中央部に達したのは17日午後8時ごろと推定されている。
この時の県内は1時間に149ミリを観測、岐阜地方気象台始まって以来の集中豪雨となっていた。
そのころ730人を乗せたバス15台は、この豪雨のため岐阜県白川町の国道41号線で別の崖崩れがあった為通行不可能だった。
このため本来の目的地であった乗鞍岳行きを断念し途中で名古屋に引き返す事なる。しかし・・・・
18日午前2時11分 岐阜県加茂郡白川町地内国道41号線の道路わきの西側斜面山肌がゆるみ、岩 石 土砂が、高さ100メートル幅30メートルにわたって数ケ所で崩れ落ちた。
そこへちょうど現場を走行していた乗客、乗員730人を乗せたバス15台のうち5号車6号車7号車の3台が土石流に巻き込まれた。
土石流は扇状形に国道に流れ出て道路を乗り越え、ガードレールを破って、3台のうち5号車6号車が土砂に押し流され飛騨川に転落、濁流にすい込まれた。
現場には転落したバスの他にバス トラック 乗用車など約30台が前後を土砂に阻まれて立ち往生していたが、比較的安全な場所に車を移動し、バスの乗客を下車させて誘導するなどしてなんとか難を逃れる事が出来た。
事故の第一報は転落から難を逃れた他のバスの運転手ら4人が、道路上にたい積した土砂を乗り越え、対岸の下山ダム事務所に駆け込み事態を知らせ、事務所から上麻生発電所を通じて地元の加茂警察署に通報された。
しかし当時は携帯電話 ポケットベルなどもちろん無く、公衆電話も設置されてなく、現場の悪天候と、土砂で行く手を阻まれていて、街灯もなく深夜だった悪条件の為、加茂警察署に一報が入ったのは、事故発生から3時間29分後の午前5時40であった。
救助活動は、加茂警察署の4人と地元白川町の派出所員3人のわずか7人で始まった。
その後の捜索活動には加茂警察署隣接4署や岐阜県警機動隊、自衛隊、地元消防団、岐阜、愛知、三重の3県と地元市町村、名鉄クループなどから大量に動員し、約50日間だけで延べ4万5千人が投入された。
バスは19日午前10時20分、転落現場から約300メートル下流で1台を発見・・・
車体は天井を逆さにして、車輪を上にして転倒したまま岩に引っかかった状態で、原型をとどめないほど完全に大破していた。
車内には砂がいっぱい詰まり、その中から3人の子供の遺体が発見された。
22日午前10時10分、もう1台のバスも発見された。転落から4日目のことであった。
発見場所は転落現場から約400メートル下流の地点。
引き上げられたバスは、窓ガラスから上部天井にかけてスッポリとなくなり、左半分は土砂に埋まったまま。
川の強い流れをせき止めるように、岩と岩との間に斜めに食い込んで、くの字に車体が曲がっているという惨状であった。
遺体はわずかに一体発見されただけだった。
事故当日、飛騨川の水位は15メートルにも増水していて、バスは完全に水没していたという。



22日からはダムのゲート操作により、貯水した水をなくして川底の捜索をする方法がとられ、転落現場下流の上麻ダム・川辺ダム・今渡ダムの貯水量をなくし、川底にたい積した土砂を掘り起こして遺体捜索が行われた。
ブルドーザーなどの重機を使用したりスコップやクワなどを用いて人力で掘り起こす必死の捜索が続けられた。
地元の消防団員らはポンプで水を吸い上げ土砂に放水して遺体を探すという方法も行った。
発見された遺体の大半は激流にもまれ、押し流されたことから損傷が激しく、8月という季節条件も重なり事故発生の2日目ごろから腐敗の進行も激しく遺体の確認は困難を極めた。そこで、身元確認には指紋や歯型の照合が行われた。しかし、それでも遺体を間違えて引き取るという事も何件か起きたとう。
遺体は飛騨川の激しい濁流ののまれ、事故翌日には伊勢湾で見つかるなど、捜索範囲も現場周辺だけではなく、飛騨川、木曽川水系、94キロメートル、岐阜、愛知、三重の3県にまたがり、きわめて広い範囲にわたり発見された。
しかし、わずか3人が奇跡の生還を果たした。
それは5号車の運転手と添乗員、乗客(少年)であった。
その運転手は事故について次のように語っている。
「私は5号車に乗っていたが、一瞬のことであまり記憶がない。
バスの前面フロントガラスが割れ、そこからほうり出されるように川にのまれたようだ。
手足を一生懸命動かしたが、すごい濁流でどうしようもなかった。約100メートル流されてようやく岸に辿り着き、崖を約1メートル必死に登っていると上の方で懐中電灯の光が見えたので、思いっきり大きな声で『助けてー』と叫んだ。
するとロープが降りてきたのでしっかりとつかまった。
バスが落ちるとき、子供たちの『アーッ』っという声が今も耳から離れない」
その後遺体の捜索は、1ケ月あまりにわたって行われたが、12人は依然行方不明の状態が続いた。
なかには一家全員が事故で死亡し、遺体の引き取り手がない場合には、遺族の現住所である名古屋市が引き取ることになったという。
一ヶ所のバス事故で104人もの犠牲者が出たのは史上初めてのことであり、きわめて悲惨な事故となった。
この転落事故での崩れた岩石、土砂等の量は、推定740立方メートル、ダンプカー約250台分であったという。
その後1周忌を前に、犠牲者の尊いみたまをまつるとともに、あのような事故が二度と繰り返さないことを記念して転落事故現場からおよそ300メートル下流の国道41号線横に「天心白菊の塔」という慰霊塔が建設された。
そして奇跡的に助かったもう1人の少年は、濁流に流されながら必死にすがりついた木があったという。
転落現場から約150メートル下流の国道41号線からおよそ2メートル降りたところに自生する うるしの木 がそれである。
その木があったため少年が助かったことから、「奇跡・延寿の樹」と名づけられた記念の石碑が建てられた。
「天心白菊の塔」の除幕式には、転落事故で父母と姉を失い、自分だけ奇跡的に助かった 少年 が除幕を行い、追悼文を読み上げた。
「お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。
いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。
でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。皆さん仲良く暮らしてください。
二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください」
1周忌の前日と当日には一体ずつ新たな遺体が発見されたという。
しかし今もなお行方不明になって見つかっていない人たちがいるという・・・・
その後事故現場付近では奇妙な霊的現象が起きているという。
体験談 : 慰霊塔がある付近に電話ボックスがあり、そこで上半身しかない女性が電話をしていた。
体験談 : 事故現場近くのトンネルで上半身しかない男性が道路を走っていて、走行中の車に急に飛び込んできて消えた。
体験談 : 国道41号線の事故現場周辺は飛騨川沿いで夏でも涼しく、道路も比較的空いていてエアコンをかけるよりも窓を開けて走っていたほうが涼しい場所で、その人も車の窓を開けて腕を出して走行していた。
その時は美濃加茂方面から高山方面に北上していて、事故のあった場所には慰霊碑が建てられていて、それを過ぎるとすぐにトンネルに入ります。
その慰霊塔にさしかかる手前で寒気を感じて手を車内に入れようとしたが、入れようとした手を誰かにつかまれて入れることが出来なかった。
その人は恐怖のあまりそのままスピードを上げて走り抜けようとしたが、手はつかまれたままの状態でミラーも見る余裕もなく、とにかく少しでも離れようと考えてそのまま走り続けいちばん近くにあったコンビニに入り、車を止めるとつかまれていた手は引っ張られなくなった。
体験談 : 慰霊塔から飛騨川カメラで撮ったら、写真に川から突き出している手が写っていた。
このような数々の体験談は、いまだに発見されていない人々の霊魂がさ迷っているからなのであろうか・・・・
我々は真相を確かめるために現地へ出向いた。
白川町は飛騨路の一歩手前にあり、その国道41号線という道路、冬はスキー、夏は涼しさを求め下呂・高山へ、周りは木々におおわれているため紅葉の季節は美しい限りで、事故から33年経った今は当時の恐怖を蘇らすものは「天心白菊の塔」を除いて何もない。 が、太陽が沈んだ夜ともなれば辺りのようすがいっぺんに変わる。
車で走っていても何ともいえない不気味な静寂感が漂い、どこかへ吸い込まれていくような気がする。
体験談にもあったように車内の窓から手を出して検証するが調査員に何の変化はなく、トンネル内を通過しても、電話ボックスを確認しても霊的現象は何ひとつ起こらなかった。
やはり、たんなる噂だけなのか・・・と思いつつ「天心白菊の塔」に到着した。
現場は国道41号線沿いにあり、車が10数台止めて置ける待避所になっており、その奥に慰霊塔は建っている。
我々はまず、線香をたいて犠牲者の方々にお祈りをし、それから辺りの撮影を開始した。
フィルムを5〜6枚使ったころだと思うが、それまで自動でフラッシュ(一眼レフカメラ使用)が光っていたのに、突然フラッシュが上がらない・・・
その場に居合わせスタッフ一同、背中に寒いものを感じ、一瞬凍りつくが、気をとりなおし強制的にフラッシュをたき、なんとか無事撮影を終了することが出来た。
後日現像から戻ってきたフィルムをチェックしたいた時である。
「天心白菊の塔」が写っている一枚を見ると、写っているのである。
人間の顔らしきものが・・・・
いや、らしきではなく、確かにそれは 『女性の顔』である。
しかも顔だけではなく、肩のラインまで確認できる。
その顔は目を見開いていて、口を大きく開けて、溺れている時のように、もがき苦しんでいるかのようにも見受けられる。
やはり、噂だけではなく、霊的現象は存在するのである。




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