明治35年1月23日、陸軍第八師団青森歩兵第五連隊215人が耐寒訓練のため、3日間、52キロの行程で青森から三本木に出発した。翌24日、八甲田山周辺を記録的な猛吹雪が襲い、連隊は道標を見失い、結果199人が凍死する大惨事となった。
二次遭難の危険から、遺体の捜索は難航を極めた。そのため最後の遺体が発見収容されたのは4ヶ月も後の、5月28日であった。
当時の新聞には発見された遺体の様子について
「前後70余名発見された死体の多くは、雪中を彷徨したために、靴のかかとは破れ、眼は閉ざされてなく生きているようである。外套は凍って板のようになっている。わら靴は石のように固くなって、なたがなければ外すことが出来ない。しかも死体はことごとく青森の方を向いて、いずれも仰向けに、又は立ったままで、帽子は飛んで見えず、顔は赤く腫れあがって一見して苦悶のすごさを察して余りある」
と記されている。
以来、「後藤伍長の蔵」「地獄沼」の周辺で、兵隊の幽霊が目撃されるようになった。
極寒の極限状況の中、どのような悲惨な最期を迎えたかは想像するしかないが、未だにこの地を彷徨い続けている事は間違いない。
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