●更新日 12/04●


男装の麗人川島芳子生存説 その信憑性とは


若くして亡くなった有名人には、必ずと言っていいほど生存説が付きまとう。最近亡くなったマイケル・ジャクソンがいい例である。男装の麗人川島芳子もその内の1人である。

川島芳子

川島芳子の父は清朝の御前大臣として使えていたが、辛亥革命が起こり1912年に清の皇帝であった宣統帝が退位。袁世凱を臨時大統領とする中華民国が建国された。宣統帝の退位に強く反対していた粛親王は日本人である川島浪速の手引きで皇帝退位直前に北京を脱出。その後は川島浪速を通じて日本軍や政府の支援を受けて、反袁世凱や清朝復辟を掲げた宗主党の中心人物になるなど、日本との繋がりを強めていった。そして愛新覺羅顯シは日本政府との交渉人となった川島浪速との密接な関係を示す目的などで川島浪速の養女となった。この時愛新覺羅顯シの名は川島芳子となった。1915年に来日してからは、1930年に上海へと渡るまで日本に滞在。その間に断髪し、女を捨てるという決意文章をした。このことは新聞に掲載されて、芳子のことはマスコミに広く取り上げられることになった。彼女は端正な顔立ちと清朝皇室出身という血筋を持っていたため、人々は強い関心を示し、一種の社会現象を巻き起こった。
後に川島芳子は上海で諜報活動などを行ったといわれている。そして1933年には関東軍の熱河省進出のために組織された熱河自警団の総司令に就任した。このニュースは日本や満州国で大きく取り上げられ、満州のジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになった。しかし1934年頃からは講演会で、満州国での関東軍の振る舞いや日本の対中国政策を批判するようになった為に軍部や警察から監視されるようになっていた。日本敗戦後は各地に潜伏していた芳子だが1945年10月、北平にて中国国民党軍に逮捕された。彼女は国賊として追訴され、1947年10月に死刑判決が下された。そして翌年3月25日に北平第一監獄にて銃殺刑に処された。

川島芳子

川島芳子の生存説は、当時から現在に至るまで囁かれ続けてきた。その理由の1つが、芳子の処刑が非公開で行われたことであろう。当時、国賊の処刑は公開で行われるのが通常であった。しかし川島芳子の場合はアメリカ人記者2名のみが処刑場に入ることを許されただけであり、またアメリカ人記者らも写真を撮影することを拒否されたという。さらに某番組では川島芳子生存説の特集をしていたのだが、番組内で彼女は、方おばあちゃんという名前であり、日中混血児を養子に向かえて30年以上生き延びたと報じられた。また川島芳子に育てられた養子は絵描きであり、養子が描いた似顔絵は非常に芳子に似ていたのだという。
他にも処刑された人物の骨格と、生前の芳子の写真から割り出した骨格は大きく異なっているという噂がある。この噂を肯定するかのような証言を、川島芳子の親戚である愛新覚羅徳崇氏がしている。彼曰く、徳崇氏の父が芳子を救うために金の延べ棒30本を使ったという。さらに川島芳子が処刑されたと考えられる年から7年目の時に、芳子が訪ねてきて愛新覚羅一族固有のお辞儀を三回したという。この時に徳崇氏は姉から「あの人は身代わりに死んでくれる人がいるくらいえらいのだよ」といわれたそうだ。
だが、実妹である愛新覚羅顕・は自伝にて、処刑直後の写真は間違いなく本人であると主張。替え玉説は、アメリカ人の記者以外が刑場に入ることを許されなかったため、腹いせで流したデマであると告げている。

川島芳子

果たして彼女が生きていたのか、処刑されたのかは未だ確定されない。だが、晩年ぐらいは幸せに生を全うしたのだと考えてよいのではないか。筆者はこのように思えてならない。



山口敏太郎



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