●更新日 09/07●


流浪の漂白民・サンカの謎


そもそも、「サンカ」とは一体どのような集団であろうか。その発生は歴史的にいつなのか。
現代でも判明していない。

古代の賤民にルーツがあるという説によると、「坂の者」と呼ばれた清水坂や奈良坂の付近に居住した連中が、後に「サンカ」になったと言われている。
確かに「坂の者」と「サンカ」の発音は似ている。この説は、喜田貞吉が提唱したもので、学者の谷川健一なども提唱している。

他には、「サンカ」の発生は近代にあるという説もある。
そもそも「サンカ=山家」という呼称を資料で遡っても、せいぜい江戸の末期が限界である。
つまり、それ以前に「サンカ」という人間の集団の記録が、見当たらないのだ。
仮説によると、江戸期の度重なる飢饉において兆散した農民たちが、川べりを移動しながら生活していたのが、近代において「サンカ」と呼称されるようになったと言われている。





この近代発生説の根拠はいくつかあるが、江戸幕府が数々の異形のグループに提出させた由緒書きの有無が、大きな証拠としてよく言われる。
つまり、香具師たちがお上に提出した「十三香具師虎ノ巻」や、弾左衛門が製作した由緒書き、家船衆による由緒書がそれである。
江戸期において、幕府や諸藩が政権の安定を図るために、不審な集団に職域やルーツについて報告文書を作らせていくのだが、その中にサンカがない。
逆接的に言うと、少なくとも規律のとれた集団してのサンカは、江戸末期以前に存在していなかったということになる。この近世での発生説は、学者の沖裏和光などが展開している。

また「サンカ」とひと括りにしても、実際には常民(封建制度に従い定住し、体制に管理された農民のこと)以外の様々な人々を指している可能性もある。
更に、警察官僚的な視点からの見方を述べると、サンカ=犯罪集団という偏った見解もある。
マスコミ出身であった三角寛は、基本的に警察的見方、扇情的な見方が多かった。

因みにサンカの使ったとされる隠語は、犯罪者の隠語と重なっており、一部のサンカが犯罪に走ったことは伺える。幾つか例を挙げると、ガサ入れ=住みかなどを警察にさぐられること、ばらし=人をあやめること、などがある。
無論、大部分のサンカ(と呼ばれた)の人々が、犯罪とは無縁のまっとうな生活を行っていたのは言うまでもない。

なお、通常のサンカの人々は、川べりを中心に一定のエリアを漂泊しており、明治以降、昭和にかけて定着し、街中に居住するようになっていった。
一説によると昭和、特に戦後以降は半定住の家族が大部分であり、川魚を求めて移動したり、箕直しの行商として移動したりもしたが、基本的な在所は固定され、戸籍に編入されるようになったとされている。

八切止夫もサンカ五部作などで、世間に多くのサンカ情報を発信している。彼自身幼少時、サンカの家に預けられた経験から、サンカに対するリアルな見解をしめしている。江戸は、壊戸であり、穢れた賤民の子孫によって作られた町であったとか。その為、「三代続いて一人前の江戸っ子である」という理屈は、サンカに途中から流入した者も三代経れば仲間であるという概念を継承したものであるとか。シノガラというサンカのネットワークが存在し、裏切り者には制裁を与えると主張した。


現在でも、サンカと呼ばれる人々の子孫は全国に存在がするが、その大部分が一般市民として生活しており、サンカに関する取材に応じることはない。
また、万が一応じたところで、漂泊時代の情報を聞きだすには困難な高齢になりつつある

筆者は少年時代を四国・徳島で過ごしている。
昭和40年代に祖母から遊んではいけないという、山間の集落にある同級生の家に行ったことがある。
恐ろしく、小さな小屋であり、6畳一間に台所・便所という粗末な家に住んでいた。しかも、Y君はよく川で泳ぎ、川魚の捕獲が上手かった。

また、確かに言葉が通常の徳島弁とは違った。靴を外に脱いで玄関(戸?)を開るといきなり居間であり、家族三代が勢ぞろいしていた。
暖かい人々であり、彼らは皆、純朴であった。
Y君の家族のような人々への偏見や興味本位の視線がなくなれば、文化として「サンカ」や多くの化外の民の研究ができるのにと切に思っている。



山口敏太郎



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