●更新日 01/15●

もう一人の電車男


一年前の冬、五十過ぎの独身ドラマーと彼のマンションで三日間酒を飲み続けたことがある。

彼は妻と一人娘に死に別れ、一匹の三毛猫と暮らしている。部屋の隅には練習用の音の出ないドラムセットが置かれ、敷かれている布団は万年床のようだ。

焼酎を酌み交わしながら彼は、こちらから聞くともなしに、彼の半生の俄かには信じがたいエピソードの数々を語った。これはそのひとつである。






若かりし頃、彼が大阪の天王寺から電車に乗ると、若い女が目に入った。好みのタイプだった。

声を掛けると、彼女は言葉を返せなかった。聾唖者だったのである。

なんとか手振りで会話が成立し、彼女をデートに誘うことに成功した。







気が合った二人はホテルで一夜を過ごした。

彼女は処女だった。彼は彼女に惚れてしまい、結婚したいとまで考えるようになっていた。

別れ際、彼女に「電話番号を教えてくれ」と身振りで伝えると、彼女は自分を指差し首を振るばかりで教えてくれない。

「会いたくないのだろうか」とショックだった。彼はメモに自分の電話番号を書いて渡し、二人は別れた。

翌日の夜、彼の部屋の電話が鳴った。

受話器を耳に当てると電話のダイヤルを回す音だけが聞こえる。その音が何度も繰り返し聞こえてくる。






「何だろう」と初めはいぶかったが、やがて彼は気づいた。

「彼女だ」

彼女が回すダイヤルの音を聞きながら、彼はなすすべもなく呆然と立ち尽くした。

二人は二度と会うことはなかった。



ここまで話すと、190センチちかくもある大男の中年ドラマーは泣き出した。

「何てことしてしまったんや。わるいことしてしもうた。彼女耳が聞こえへんのに電話番号渡してしもうた。ほんまにわるいことした」

布団の上に座り大きな体を折り曲げ、手のひらで涙を拭っている。宥めても泣き止まない。

「わるいことした。わるいことした」

彼は、飼っている猫の臭いの充満する部屋で、泣き続けた。



ぽん



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